月刊焼肉文化 (焼肉文化社) 2001年9月号 Vol.100 掲載記事
浅草は六区。場外馬券場“WINS”の裏、ひさご通りをはいってしばらく、左側の小路をのぞくと、そこは別世界。往年の松竹歌劇レビューのごとく在日の焼肉屋さんの看板が浅草2-13,14番地を中心に、ところせましとならぶ。
どの店も昭和30年代にタイムスリップしたかのような、どこかなつかしく、セピア色にうつる小さな小さな通り。そこに一歩踏み入れただけで、不思議な感覚におそわれる。 |
作家の梁石日さんが「浅草観音の仏像は朝鮮渡来人の持仏である。」と書いておられたので、真偽を確かめようと、台東区図書館郷土資料室へいって文献を探る。なるほど、仏像を海中より発見した檜前氏族というのは2説ある。東漢氏族説(百済系渡来人)と出雲神族説(新羅系渡来人)があるが、どっちにころんでも朝鮮渡来人の持仏なのは確からしい。
年代的にも、仏教が伝来しているかしていないかの微妙な時代で、仏教のまだ浸透していなかった土着の日本人が仏像をありがたく思い、寺まで建てたとはとても思えない。また、檜前氏に寺の建立をすすめた戸長の土師氏も朝鮮渡来人だと文献に記される。仏像はほとんど公開されたことのない秘仏だそうだが、聖観世音菩薩とか異形の救世観音像といわれ高麗系仏像説がある。
浅草・本所方面は白髭神社の縁起によると古代帰化人が馬の放牧のため相当移住していたと考えられ浅草の街もまんざら朝鮮半島と関係がないとはいいきれないようだ。
国際的観光地として名高い浅草は鎌倉時代、江戸時代には浅草寺の門前町として栄え、戦前も和製オペラ、レビュー、オペレッタ、ショーなど興行地として大衆芸能のさかんな流行最先端の街だった。街が特に変化をみせたのは、戦後の焼け野原からの復興だ。
戦前戦中の浅草の住人たちは焼け出され、千葉、埼玉、葛飾、足立、江戸川方面へ移住。昭和25年ごろ近県の移住者が浅草に増え、浅草のヤミ市では衣類、生活必需品はもちろん、米飯、本物の砂糖の入った汁粉、コーヒーなども食することができた。
焼肉店を順々にうかがい、なぜ一定地域に焼肉屋が集中したのか当時の話を聞く。
「在日たちは自分達のいるところを上野は親善マーケット(現在のキムチ横丁)、浅草は国際マーケットと呼んだのね。もちろん戦後のヤミ市の一部分。帰るに帰れぬ朝鮮人、避難民や食い詰めた人がバラックに住み、あやしい商売をしている人も少なくなかったし、治安もよくなかったねぇ。一番古いのが毎日食堂か。40年ぐらい前からあったよ。うちは昭和34年から。初期メニューは、豚・牛のホルモン焼き、豚足に豚耳、自家製マッコリかな。」と高定澤さん。(元食道園主人)
「2軒目の明月館は廃業、大福園は3番目ぐらいだね。住人としては一番古いけど。山形屋という材木屋さんがこの辺の地主で、朝鮮人たちはみんな一人では言葉や文字の問題、差別もあって住めないからグループ組んで借りて住んだわけ。高山さん、高本さん、高原さん、済州島高氏の同じ村の人が集まったわ。」と呉錦順さん(焼肉・大福園の女長老)
「うちは34年前だから5番目に古いよ。たとえお客の食べ残しを食べてでも、6人の子供たちを飢えさせないで食べさせるために始めたの。」と元春子さん。(焼肉・大和ママさん)
韓国家庭料理ではなく在日が日本で産んだオリジナル焼肉は下味をつけた柔らかい肉に甘いタレを二度づけして食べる独自の魅力がある。
「山谷の日雇い労働者もね、行きに寄ろうか、帰りに寄ろうか、どうせ寄るなら行き帰りって、1日の給料が240円のときに、170円は飲み食いしていってくれたし、こんなうまいもの食べたことがない!!ってお客によっては唸りながら、踊るんだもの。昭和30年の神武景気、31年の家電化時代から高度成長期でしょ。39年のオリンピックで焼肉ブームがきて一番繁盛したなぁ。でも最近は、家族づれのお客はまずないね。景気も悪いし、安い輸入肉で子供たちをごまかして、とにかく腹一杯食べさせている感じ。ファミレス焼肉が親子で4千円ですむところを、うちは8千円になるから、いくら和牛でおいしくていいものを出していても嫌われるみたいだね。昔は大盛りでタダで出していたキムチも、徐々に量は控えめに出すようになって、オイルショックごろから、注文制でお金をとるようになったし。」と高さん。
この浅草の焼肉屋地帯は三河島と同じく済州島の人が多いため、郷土料理の豚のセッキフェやケジャンクク(犬肉スープ)もあったそうだ。朝鮮半島の陸地ではゼンマイを使うが、済州島のナムルはワラビを使うという特色もある。残念ながら今では、食べる人も少なくなってきて、ほとんどのお店が郷土色の濃い、古くからある料理を出さなくなっている。セッキフェをどうにか現在もやっているのは焼肉大和。
昭和60年には昼間の常連、山谷の人々も消えた。だが、街や景気、世相がいくら変わっても住む人々の人情までは変わらない。取材に行けば「わざわざ遠いところからきてくれてありがとう。暑いからコーラ飲んでいきなさい。」とごちそうしてくれ、食事をすれば、「はいっ。サービスね!!」と、ホルモンと子袋の焼物をだしてくれる。
錦野旦さんが何度も足を運び、ビートたけしさんがお礼回りにやってきたり、有名な歌手やタレントさんたちがお忍びで、この焼肉街をおとずれるのもわかる気がする。「近所みんな知っているから、24時間一人でやっても怖くないし、20日に一度、みんな集まって、順番でそれぞれの焼肉屋で食事もするの。」と元さん。「ごはん貸して」とくるお店もあるし、街の人々と共に、長い年月を素朴にやってきたという感がある。2m弱しかない道幅だが、通る人はみな、お店をのぞいて人がいれば、挨拶をしてゆく。
浅草の本当の味わいは下町情味と韓国有情がみごとにミックスされた独特な世界、懐古の趣も深い焼肉街にこそあるのではないだろうか。
浅草の国際劇場が昭和59年に閉館し、浅草ビューホテルになった。そのため焼肉街の客足が途絶え、軒並み店をゆずって上野や新宿に店を移転。後釜にはいった者も2、3年でまた店をゆずり出ていってしまうというくりかえし。映画館や劇場が次々と閉鎖していくなか、バブル期の地上げで、駐車場になった店、土地を売って埼玉方面へ引っ越していった人もいるという。
現在は場外馬券買いの客、外人観光客、東京見物が目的の中老年向きに営業している店だけがなんとか生き残っているのが浅草全体の傾向だ。近所に若者のつどう大学や専門学校もないので、現代の盛り場としての条件にも欠ける。
しかし、浅草商店街側もなんとか若者を街へ呼び戻そうと、三社祭り、ほおずき市、サンバカーニバルなど催しを企画し、現在は懐古趣味な若者が少しづつもどってきているような気配もある。
「昔みたいにお客さんを確保できればねぇ。なんとかならないかなぁ。」「お店を宣伝してくれるのは大歓迎、よろしくね。」「へぇ、インターネットに紹介してくれるの?ありがとね。」という焼肉店の主人の声も多い。
今後の課題は若者のトレンドにあわせお店がついていけるかどうかだろう。メニューもなるべく昔どおり、金額も変えないでやるとして、では、なにをするべきか。店舗ごとのHP作り、検索サイトへの念入りな登録など、IT革命による若者へのアピールがお店の盛衰を左右し、経営戦略としては必要ではないだろうか。
懐古を大切にする気持ちの裏には常に新しさへの希求と挑戦もあっていいはずだし、新旧の折衷様式を尻込みしないで考えていくべきだ。
月刊焼肉文化 (焼肉文化社) 2001年9月号 Vol.100 掲載
フードジャーナリト 高 ヒョン美
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